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光妙寺三郎
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光妙寺三郎
一その人と足跡一
福井純子
はじめに
ここに紹介する光妙寺三郎(1847-1893)は現在では忘れられた人物である。彼の名
前にいささかなりとも光が当てられるのは,鑑き日の西囲寺公望との関係においてで
ある。パリの星旗楼における両者の解遁については,西圃寺が雑誌r世界之日本』第
3巻第21号(1899年6月241])に「如何なるこれ風流」と題して書き残している])。こ
の一文は国木田独歩編『陶庵随筆』(新声社1903年)21に収められ,西園寺の風流公子
ぶI)を伝える逸話としてよく知られており,三郎はその相方として登場する。また西
園寺はこの三郎との出逢いを`懐しんで,つぎのような漢詩を作っている31。
星旗楼題壁。二十年前。予与光妙寺三郎飲此楼。三郎有詩最琴`情奈我伺之句。
今再過之。不禁繊然。因作二十八字。
琴情詩景夢荘荘二十年前旧酒場
無数垂楊生意尽傷心不独為三郎。
星旗楼で出逢った西園寺は三郎と「フランスの学友にして,悪友を兼ねたものr)
であI),ともにハイカラ紳士の酒落者であった。西園寺文部大臣はヨーロッパから取
り寄せた香水や髪油を地方視察の際も一式携えたといわれているし,三郎の風采挙
動はパリジャンの如く,彼が歩くと-町も先から香水のかおりがしたという逸話が
残っている`。このように光妙寺三郎は西圃寺のフランス時代の悪友として逸話の中
において語られたきた。三郎の略伝を記したものとしては『日本帝国国会議員正伝』
(水戸照陽編田中宋栄堂刊1890年),前橋潮洲「光妙寺三郎」(『明治法学』30号-36号
104特集比較文化研究
1902年2月2日-5月201]明治大学図普館所蔵マイクロフイルム)がある。前者は第1回
衆議院議員選挙当選者のプロフィールをまとめたもので,三郎の生前に誓れたもので
あり,後者は三郎が講師をつとめた明治法律学校の機関誌に没後10周年の追悼記事と
して連救されたものである。1902年以降に書かれた光妙寺関係の文献,たとえば「近
世防府人物誌」(佐伯為蔵編輯発行1933年)や「近世防長人名辞典増補版』(吉田祥朔
マツパ!「店1976年)などの記述は,ほぼ上記二点の略伝を典拠としている。木戸,前
橋の二作は同時代に智かれたものとして大きな意味を持っている。しかしこれらが三
郎を逸話の世界に閉じ込めてもいる。没後100年の今日,彼を伝説の中の人物から歴
史上の人物へ解き放ちたい,というのが本稿のねらいである。
第1章誕生
第1節光妙寺と半雲和尚
三郎は弘化4年(]847)8月,周防国三田尻の光妙寺主半雲和尚(1812-]874)の三男に
生まれた71。光妙寺,正しくは浄土真宗本願寺派鬼玉11」光妙寺は山口県防府市東三田
尻1丁目に現存する。三郎は父が住持する寺の名前を姓としたのである。また彼は時
みつ廷
に光H]脇)を名乗るが,こオLは光の字をとったものである。さて,当寺は文明6年
(1474)大和国高市郡I|」田村に草創され,その後芸州吉田に移り,さらに慶長年間,毛
利輝元の防長打入に際して三田尻の舸子町に引寺した。現在地に所替えになったのは
貞享4年(1687)のことである1。三田尻は瀬戸内海に面した萩藩領の村であった。同
所は古くからの海賊の根拠地のひとつであり,慶長期に毛利氏の御船蔵が置かれる
と,海上・陸上の交通の結節点として発達した。慶応元年(1865)には萩藩の海軍局が
設けられ海軍兵学校も開校したⅡ川。
三郎の父半雲和尚は幕末維新期にこの寺の住職をつとめたが,彼は「聡敏奇才」い
と評される多芸多才の人であった。彼は書画器物を蒐集するのみならず,自らその技
に秀いで,数百余に上る潤筆料によって茶菓を楽しみ,郷の赴くまま兼を執ったとい
う型。また彼は俳句を好んだ。r周陽三家句集.!(清水米泉・H1中稲守撰1882年)には同
地の俳人公成・素兄とともに,其羊と号した半雲の句が収めら
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