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浓尾平
一37一 濃尾平 野(2) その自然史と社会史との交流 桑原徹(名城大学) 4.艦尾平野の自然災害 4・1河川洪水 上代から木曾三川流域の洪水氾濫はその記録だけ でも枚挙にいとまは狂いほどである.木曾川流域の自 然提防の発達カミ長良・揖斐の両河川に比べて著しいこと は先にもふれたがその比高は3mにも達しているもの がある.この自然提防は当時の洪水位がこれをしのぐ 高さに達する激しいものであったことを物語っている. そして氾濫原域では洪水時に砂礫が耕地に再々流入 したのであろう.一方三角州平野では自然堤防も低 く氾濫時の水深はずっと低かったのであろうが排水 の悪いこれらの低湿地では一たび氾濫すると長期間湛 水し被害を増大させたことであろう. また洪水に伴う河道の変遷もやっかいな出来事であ った.その状況は第9図に示した河道変遷図をみて も想像に難くないであろう.ここに示さ れた旧河道も歴史時代に入ってから人ぴ なった.当時秀吉の大がかりな堤防工事の伝えカミ残 っており新しく設定された木曾川本流をもって改めて 濃尾両国の国境とするという秀吉の裁断によって今日の 国境がさだまったのである.16世紀の前半には揖斐 川の本流も坑瀬川すじから現在の位置に大きく流路を変 更するなど根尾川や長良川の流路変更も相次いで記録 されている. 上代から中世にかけての治水は河道の凌ぜつを行な い河川の主要流路の疎通をよくすることと楓道の安定 にその重点カミおかれるいわゆる低水位工法であったた め洪水にさからわず洪水の直撃からはなるべくまぬ がれることが考えられていた.近世の輸中の基礎とも だった尻無堤の築造も上流からの洪水の急熱は極力し のぐが下流側からの浸水には適応し洪水氾濫の勢い とが河道を凌(せつ)し自然堤防を利用して 小規模ながらも築堤をくり返えし河道と 後背湿地とを固定化させようという努力が 加わったものでありもはや本来の自然の 奔放な河川氾濫のあとではないのである. 木曾川は犬山扇状地から分流する一之枝 川・二之枝川・三之枝川などを含めて木曾 七流と呼れるほど多くの派川に分かれてい た.上代の木曾川の本流(当時は鵜沼川 と呼ばれた)は現在の境川すじを流れて 墨俣のあたりで長良川と合流し当時の美 濃と尾張の国境となっていた.その後 木曾川の本流すじは洪水時の土砂の堆積に よって河床が高くなり河道を南に転じ尾 張領内の黒田川一目光川すじを流れ尾張の 国を分断してしまった.こうした木曾川 本流の洪水に伴う流路の変遷は美濃・尾 張両国の国人たちの間に激しい争いを生ん だ. ・0穴 ~蟻、洲洲. 淋 5勢大垣蝸裂 ■I1州,、紛キ、 )ン;淋,,/ 養 尭 《ノ現詞道 〃芯甘!洞詞直 一344川1344垣主リ珂鉤とぢ君 ■6891689年以膨裏川1 加1 ・呉・ 一榊州笹 川11 一 ぺ 蛮班肉 川㍍勲ハ 山之1似鵡榊紬 ・脇ξ1;事、 派1い::淋 來・ }w商川。 ^・■一、.三田 川 大正14年(1586)の大洪水以後木曾川 本流はほぼ現在の川すじに落ちつくように 第9図濃尾平野 の歴史時代の河道変せん 一38一 をやわらげると共に下流側からの洪水に伴う細粒土の堆 積によって土壌の肥沃化をはかったといわれている. 近世に入ると社会体制の安定化と労働力動員能力の 向上によって自然堤防を利用しながら大規模恋築堤工 事が進められるようになった.先にあげた尾張藩の御 囲堤も領内を流れる木曾川の各派川を締切る目的ももっ ており近世以後の洪水を河川敷内にとじ。込めようとい う高水位工法のはしりとみなすことができる. 河川は洪水をもたらす危険な存在であると同時に水 稲農耕には欠かせぬ利水源でもありこれを完全は排斥 してしまう訳にはいか粗かった.派川の締切工には これに代る用水路の整備の裏付けが用意されていなけれ ばなら恋かった.一方派川の締切は締切口にのこる 用水の取入口は利水上も制水上も当時大きな難題をも たらしたのである.かくして当時の築堤技術では 御囲堤も決して安全ではなく再さいの越流破堤のうき 目をみたのである. 廻りを堤防で囲まれた“輪中がこの地域一帯に発達す るようになる.こうして輸中の発達は堤内地に潅流し た洪水や内水の排除カミ困難となり湛水・腐水被害とい う新しい災害に苦しむことになった. このように治水工や干拓の進展は河川と沖積平野の 自然の平衡条件を変化させ次っぎと新しい治水課題 を提起
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