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报道资料中原中也书简

報 道 資 料 平成25年6月13日 1 件  名 中原中也書簡(新発見)の公開について 2 期  日 2013年6月15日~8月4日 3 場  所 県立神奈川近代文学館 4 内  容   県立神奈川近代文学館の「『中原中也の手紙』展―安原喜弘へ」(共催:中原中也記念館)の開催に向けて行われた安原喜弘旧蔵資料の調査において、詩人?中原中也(1907~1937)の新しい書簡が発見されました。6月15日から開催される「『中原中也の手紙』展―安原喜弘へ」(~8月4日)で初めて公開することになりましたので、お知らせいたします。 新発見書簡 (1~2枚目 (3~4枚目  書簡は150字詰原稿用紙4枚に万年筆(中字、ブルーブラックインク)で書かれており、2枚目から4枚目まで枠外右上に通し番号が付されている。日付、署名、宛先はなく、内容から見て5枚目以降が存在していたと考えられるが発見されていない。三つ折りにした痕跡があり、封筒に入れて送付された書簡と考えられるが、封筒は発見されていない。 発見の経緯  2011年から2012年にかけて、中原中也記念館の特別企画展「中原中也の手紙―安原喜弘との交友」(2012年8月30日~10月29日)の開催のため、同館の館長?中原豊と学芸員?菅原真由美によって安原喜弘旧蔵資料の調査が行われた。ご遺族が大切に保管されてきた安原の蔵書や草稿類のリストが作成され一部が画像化されたが、その過程で草稿類の中から中也自筆の詩稿「秋の日曜」が発見され、同館の特別企画展で公開された。 2013年4月、県立神奈川近代文学館と中原中也記念館の共催による「『中原中也の手紙』展―安原喜弘へ」(2013年6月15日~8月4日)の開催のため、両館の協力のもとに改めて行われた調査の過程で、県立神奈川近代文学館の学芸員?池上聡が前年に撮影された画像の中に中原中也の筆蹟に類似したもの3枚分を発見、残りの1枚をご遺族のもとで確認し、草稿類の中に混在するかたちで残されているものの4枚連続した書簡である可能性があることを中原中也記念館に指摘した。これを受け、同館および『新編中原中也全集』編集委員の佐々木幹郎氏が、発見された状況および筆跡?筆記具などから中原中也の書簡であると断定した。  以下、③~⑦の内容は、両館と佐々木幹郎氏による共同調査により判明したことである。 受信人 安原喜弘(推定) 時期 1934〈昭和9〉年後半~1936〈昭和11〉年10月(推定) 用紙 15字×10行の原稿用紙で、縦224mm、横146mm。罫線は濃い紫で、枠外左に「明大新聞高等研究科原稿紙」、枠外右下に「MEIJI UNIVERSITY」と印字されており、明治大学新聞高等研究科で使用されていた用紙と考えられる。現存する中原中也の他の自筆原稿や書簡の中に同じ用紙の使用例はない。 中原中也自身が同研究科および明治大学の他の学部学科に在籍していた事実はなく、受信人として推定される安原喜弘も同様である。用紙は知人から譲り受けたものと考えられる。 なお、安原喜弘の弟で中也とも親交があった直喜(なおよし、1910~1955)が、1929〈昭和4〉年4月から1932〈昭和7〉年3月にかけて明治大学予科、1932〈昭和7〉年4月から1935〈昭和10〉年3月にかけて明治大学政治経済学部に在籍していたが、新聞高等研究科との関わりは明らかでない。 内容  ロシアの作家チェーホフの中編「黒衣の僧」のあらすじを記し、高く評価して一読をすすめたもの。 書かれているのは物語の最終章の一部、主人公が過去を回想する場面で、中也独特の捉え方がなされている。 解説 ?中原中也(なかはら?ちゅうや、1907~1937) 山口生まれ。1933年、東京外国語学校専修科仏語修了。小学校時代から短歌を書き始め、旧制中学校在学中に合同歌集『末黒野(すぐろの)』を刊行。23年、京都に転じ、ダダイズムの詩を書きフランス象徴詩の影響を受ける。25年上京。音楽集団「スルヤ」と交流し、28年には詩「朝の歌」「帰郷」が歌曲の歌詞としてその機関誌に掲載される。29年、河上徹太郎、安原喜弘、大岡昇平らと同人誌「白痴群」を創刊、1年後第6号をもって廃刊となる。32年、第一詩集『山羊の歌』の編集を終えるが、版元探しが難航し、34年に文圃堂書店から刊行に至る。「四季」「紀元」「文学界」「歴程」などの文芸誌に多くの詩やフランス詩の翻訳を発表、翻訳詩集『ランボオ詩集《学校時代の詩》』『ランボオ詩抄』『ランボオ詩集』を刊行した。36年、長男?文也の死に衝撃を受けて心身を病み、37年、鎌倉で死去。翌年、小林秀雄に託された清書原稿によって、第二詩集『在りし日の歌』(創元社)が刊行された。 ?安原喜弘(やすはら?よしひろ、19

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