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暮柳舎甫立笔「芭蕉画像」
春
後暮季
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史
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暮柳舎甫立筆 「芭蕉画像」
はじめに
このたび、藩政期に江戸三度飛脚の頭取を勤めた村松家の現当主村松七
九氏より俳諧史料の寄贈をうけました。初代七九の実父である俳人暮柳舎甫
立の没後百年(明治41年没)にちなみ、春季展として「暮柳舎甫立没後百年
俳書展」を開催いたします。
金沢は、蕉風俳諧を主流とし、地方俳壇において稀にみる内容をそなえて
いるともいわれています。今回は初代希因から7代甫立までの暮柳舎にまつ
わる作品を中心に、当館所蔵史料および村松家所蔵の貴重な史料を展示し
ながら、金沢における俳諧史の一端を紹介したいと思います。
暮柳舎七代
甫立
三男 次男 長男
鶯甫 一甫 香甫
(初代七九、村松家養子) (
暮柳舎八代)
七九
(現当主)
七九
甫立写真 (村松家所蔵)
暮柳舎代々硯(裏面)
銘「暮柳舎伝来」
(村松家所蔵)
暮柳舎について
金沢における蕉風俳人の庵号。綿屋希因が暮柳舎を称し、2代後川、3代は後川門の車大
が継ぎ、4代は北茎とされる。ついで5代は車大門の宇牧、6代は年風門の立介が継席し、明
治14年(1881)に甫立が7代を継席した。(北茎を除いて甫立を6代とする説もある)
暮柳舎初代
希因(綿屋)ワタヤキイン
通称彦右衛門。『金沢古蹟志』には「暮柳舎希因先生は金沢観音町に住居し、俗名を綿屋
彦右衛門と称し、家業酒造にて銭商売せられし也、本名は小寺氏なり」と記している。初号を
幾因・申石子といい、北枝・支考・乙由に師事し、北枝の後を継いで百鶴園、後に暮柳舎を
号した。芭蕉直門没後の北陸地方の重鎮であり、その門から天明中興に貢献した闌更・麦
水・二柳など錚々たる俳人が輩出した。寛延3年(1750)7月11日没、51歳。
暮柳舎2代
後川(綿屋)ワタヤゴセン
暮柳舎初代希因の子。北茎の父。小寺氏。通称市郎右衛門。父希因の後をうけて百鶴園又
は暮柳舎と称す。俳諧は希因のほかに蝶夢の指導を受け、明和7年(1770)には蝶夢の五升
庵を訪ね剃髪した。希因没後は金沢俳壇の第一人者と目され、俳諧以外にも茶事などに通
暁していた。一時、河北郡森下に庵を構えたこともある。寛政12年(1800)没。
暮柳舎
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